稽古場:ゆやんたん文庫 奈良市敷島町
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デロレン祭文 小栗判官一代記

吉祥寺アップリンクのスクリーン3に入って、急に思い出したのが、「ああ、この前、ここで『ああ福島』を見て、ゲストの七尾旅人さんを見たところだあ。」でした。なんと、今度は自分が招かれてのこのこ出かけてくるとは・・・・びっくり・・・

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 チベット・ケサル大王伝の語り部達は全員ではないが、ほとんどが「神授」であるという。夢のお告げに「山の神」様がでてきて、ケサルの物語の本を与えられる。皆さん牧童ですから、字なんか読めませんと苦しむのだという。読めないので、夢の中で燃やして、その灰を喰ったともいう。目が覚めて突然語り始める人もいれば、それから精神錯乱になったり寝込んだりして、やっと語り始める者もいる。

 その語り口はとにかく早口だ。そして高原の風が伴奏というかんじ。これは、本当に天からほとばしりでているとしか思えない。そして、語り手によって、文句も表現も違うところがいい。

 説経のはじまりもそうだったのかもしれない。正本として残ったものも、ある日のある太夫の再現性の無い語りの音写に過ぎず、幾通りもの「物語り」があったにちがいないのだ。その「ケサル大王伝」もテキスト化されたという。声は失われる。文字になれば確かに残るだろう。しかし、生きた語り部達の豊かな語りを再現することはできない。いわば語りのミイラ化だ。もう、百年も二百年もたてば、「ケサル大王」も「説経」のようになってしまうのだろうか・・・

 私のしていることは、400年から200年も前にミイラ化した語りである「正本」に、息を吹き込んで、蘇らせることだが、「ケサル大王伝」はそうならないで、いつまでも「生」であってほしいと思う。

 さて、ところで、私には「神授」は無い。「神授」は苦しそうなのであんまり歓迎もしないが、しかし、なんとなく仕向けられている感じは時々受ける。今回、監督の大谷氏からゲストトークを依頼されたとき、なにか実演するならデロレン祭文(貝祭文)だろうなあと思ったのもそんな感じである。私は三味線を使う説経祭文や、浄瑠璃を手業としてきたが、どうしても越えられない一線があって、悩むほどではないが、年も年だからと諦めていたことがある。それは、暗唱なり暗譜である。ははあ、とうとう、ここの垣根に来たのかもしれないという予感がした。そこで、「小栗判官」といったって、たった5分やそこいらの分量だが、本復の段というのを取り出してみたという次第だったのである。笑われてもいいので白状するが、たった5分を仕込むのに本当に一ヶ月かかった。稽古は毎日、朝と夕の2回。朝は読経の後に、夕は散歩の山の中でだ。さすがに、これだけ毎日やるとようやく覚えた。これも山の神様のご加護のおかげだろう。

 三味線を持たないのは、軽々していて案外うきうきする。錫杖一個でそれなりの表現もできる。なによりも、お客様の顔を見ながら語るというのは、譜面をみてるよりよっぽど気持ちがよい。おお、こういうのが、本当の語りの醍醐味かもしれないぞ。譜面を見てても「場」は感じるが、視線が合うとその「場」がもっとダイレクトに立ち上がるのがわかるもんだ。

ケサル大王のご加護により、ちょっとわくわくする舞台を与えていただき、新しい感覚を覚えたので、更に大王のお力添えで、また違う語りに挑戦していきたいと思う。

 

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撮影:宮地明男