稽古場:ゆやんたん文庫 奈良市敷島町
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金時鐘氏曰く、「当事者意識が一番重要」

金時鐘作長篇詩集「新潟」に触発されて造り出されたアート作品、阪田清子作「ゆきかよう舟」、なんとも奇妙な作品である。この作品は、8月21日(日)まで、大阪深江橋の「スペースふうら」で観ることができる。

はじめ、詩集のテキストの上に塩の結晶を置くと聞いたが、それがなんの意味を持つか分からなかった。

しかし、舟形の上にのせられた何かの上に置かれた夥しい塩の結晶を見た時、これは無数の記憶だと直感した。しかも、この記憶には、時間がある。それぞれの結晶にはそれぞれの時間がある。その上、その塩の結晶は、新潟の海と朝鮮半島の海のそれぞれの海水から本人が造り出したものだという。恐れ入る。動かないはずのこの舟からの鳴動はひとつの「語り」であると感じる。そして、「新潟」の詩句の上に、新潟の海水の結晶を置くというアートは、まさに長篇詩集「新潟」を語ることだったのだと気がついた。

 さて、そのオープニングイベントが、8月11日、大阪文学学校で開催された。

「新潟」の作者である金時鐘氏は、その席上、谷川俊太郎作詞の「死んだ男の残したものは」について言及し、「死んだ兵士は何も残さなかったのではなく、戦地で何事かをしてきた者たちなのだ。彼らが何も残さなかったと感傷的に歌うことで、彼らがしたことをしては忘却してはならない。これは戦争の加害の当事者意識が全くない詩であり、歌である」と怒りをあらわにされた。最後に強調されたことは、「詩には当事者意識が必要だ」ということだった。

 この頃よく、直面するのが、「非当事者」という立場である。例えば、今現在、説経を語るとすれば、「当事者」は誰もいない。私の語るものは、自分で自分のことを語らない限り、すべて「非当事者」だろう。逆に、当事者は語れないものだ。だから、記憶というのは、当事者だけでは維持できない。非当事者が「当事者意識」を持つことで

語らねばならない。それが「記憶」となる。昔は、そうやって多くの記憶が語り継がれたが、近代国家は、お仕着せ以外の記憶を消すことに努めてきた。

 「長篇詩集新潟」は、まさに当事者だが、アート「ゆきかう舟」は、当事者意識の記憶であり、そして、私は、当事者意識をもってそれを「声」にする。

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