八百比丘尼の話は、小浜が有名ではあるが、日本各地に非常に沢山残っている。かつて、その痕跡を探して、旅をしたことがある。東京に居た時には、青梅の塩舟観音がそれだったし、新潟の弥彦山の海側にも八百比丘尼の松とかいうのがあって捜索したことがある。
ところで、不思議に思ったのは、これだけ広範囲に分布しているのに、説経や浄瑠璃には、取り上げられていないことだ。(確か黄表紙のような読み本にはなったいた)ちゃんと調べたわけではないので、ちょっと、見渡した限りのはなしだけれど。
そして、今回の公演の後、お客様と懇談した時の話に、「この話は、子宮がうずく」という感想がでてきて、ちょっと、分かった気がした。
そもそも、説経とか浄瑠璃は、基本、男目線である。(六字南無右衛門のような女太夫もいたが)一方、この八百比丘尼は「女」のお話なのだ。
「人魚の肉を食う」というその「肉」と、八百年生きるその「生」、なんか生々しい「性」を感じる。この話は、庚申講やお十念のような、女性だけの夜の集まりに語られてこそ、その効果を十分に発揮するものだろうと思った。それをかたるのが比丘尼なのだろう。小浜の空印寺わきの八百比丘尼の洞窟は、まさに、「子宮」と呼ぶに相応しく、かつて、ここに、本当に比丘尼がいたというのも肯けるのである。
白い椿は、生の滴「母乳」であり、生の躍動と、不死のジレンマである。
赤い椿は、子宮と褜(えな)であり、循環する血液である。中央の蝋燭の赤い火を取り囲んで車座になって語る時、生と死が循環する。
そして、思った。八百比丘尼は女のものだ。男が手を出してはいけない・・・
と