稽古場:ゆやんたん文庫 奈良市敷島町
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衝撃の乾真裕子個展「玉繭」


美術を評する力は私には勿論無いが、乾真裕子の作品は私には、肉弾的パフォーマンスとして、美術というより芸能に見える。上の写真も作者自身の変態である。

 彼女は最初、「葛の葉」について聞きたいと尋ねてこられた。その時には「竹取物語」という奇妙な映像作品とともに現れた。「私は、月には帰らない」というのである。そして次の作品「葛の葉」が映像化された。これは卒業作品だったので、今年の春頃の話である。そして、今回の個展の直前に、また現れた。どうやら、悩んでいるらしい。9月の個展なのに、8月の中旬のことだ。映像は海外で撮り終えていたが、悩みは、母方の高祖父「曽和義弌」氏のとんでもない著書「日本神道の革命」(1961年)のことだった。神の系図としては、天皇制を否定し、万世一系を否定する真っ当な内容だが、乾真裕子が立ち向かっている課題と真っ向するような「家父長制」と男尊女卑が声高なのである。そのほかにも、個展で取り上げようかと考えている候補がふたつぐらいあって、どうするか迷っているとのことだった。そこで、「今日の話の中で、一族の義弌さんが希有で一番面白いし、避けては通れないのでは?」と、答えた。

結果の一部がこうである。異議ありテキストを絹糸で、縛り付けた?のか、いや、包み込んで、「繭」に戻し、新たな『変態』の機会を与えるのか?・・・その上、自身のパフォーマンスは、このテキストを音読し、異議あり部分では繭玉を口に含んで、もごもごと読むのである。魚の餌に使う、さなぎ粉の臭いを知っている方は、想像がつくとかもしれないが、思わず吐き気がするのである。こみあげるものを押さえながら、抗議の音読をする。なんという決死のパフォーマンスだろうか。ただ者ではない。

 そのパフォーマンスへの返歌は、「ふゆじどん」である。「ふゆじ」とは、熊本方言で、「なまけもの」みたいな意味である。しかし、石牟礼道子の言うところの「ふゆじどん」とは、社会的効率になんの寄与もしない存在が、神の如くに尊く、いや神とは本来、蛭子(恵比寿)のように五体不満足なものなのだという逆説なのである。

だから、苦海浄土の神々の村には、胎児性水俣病の肢体不自由児がいる。そして、ここにいる「玉繭」とは、一種の奇形であり、絹の効率性の外にある存在である。

 ただ、ひとつ残念なのが、この個展で飾られた「繭」が、純白の繭であったことだ。この純白は、近代日本をのひとつの象徴である。ここに、養殖種ではない、つまり資本主義の外に存在する、黄色い山繭が居てしかるべきだろう。

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動画撮影:掘蓮太郎

次は、いったい何をやらかすのか、楽しみだ。

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