2024年きのえたつ。百年芸能祭はこれから百年続けます。そのまた一歩。融通念仏というのがありますが、その一歩が、それぞれの参加者(主客一体)の数だけかけ算される。そうやって粘菌のようにはびこっていけば、いつかは「変わる」。表はいつか朽ち果ててはがれ落ちるだろう。バビロンシステムフォーリンダウン!
稽古場:ゆやんたん文庫 奈良市敷島町
問い合わせ先 wata8tayu@gmail.com
2024年きのえたつ。百年芸能祭はこれから百年続けます。そのまた一歩。融通念仏というのがありますが、その一歩が、それぞれの参加者(主客一体)の数だけかけ算される。そうやって粘菌のようにはびこっていけば、いつかは「変わる」。表はいつか朽ち果ててはがれ落ちるだろう。バビロンシステムフォーリンダウン!
2023年12月2日水俣百年芸能祭の初日は、百年座談会から。国家というものが自体が、犯罪組織であり、特定の個人のための搾取機関であることが、それぞれの百年座談の中で明確に浮き彫りにされた。しかも、どの百年も、その根本は奴隷的な資本主義・植民地支配に代表される「貪欲」に集約される。即ち「在日の百年」慎民子、「東北の百年」山内明美、「水俣の百年」葛西伸夫。そして、その犯罪者たちは、残念ながら現在も脈々と生き続け、なお一層、その狂気の牙をむき出しにして、人々を食い物しているのである。ウクライナもパレスチナも、対岸の火事ではなく、現に我々は、この国の奴隷とされているのに気がついていない。そこの若者よ、あんた、奴隷なんだよ。
それで、いいのか?
と問いかけるのが、百年芸能祭なのである。
この座談会の詳細は、「百年芸能祭タイブロイド新聞第三号」に掲載予定。乞うご期待。
12月3日 二日目は、恒例の「乙女塚供養」から、今回はプンムル隊が参加したのでとっても賑やかになってよかった。
砂田エミ子さんに必ず聴いていただかねばならない「起ちなはれ」
三味線のトラブルが多いので、今回から、太鼓で語ることにしてみました。
午後からは、親水公園で一切有為法、鳥獣虫魚山川草木、すべての供養をしてから、初めて、相思社の周辺をチンドンで賑やかしをすることにした。これが予祝である。私だけでは、供養で限界だが、ピヨピヨ団になれば、「予祝」までできることが本当に素晴らしいと思う。
さて、夜の百年芸能祭本番は、地元のミュージシャンも大集合していただき、さらにバラエティーに富んだ芸能祭になったことは、偏に、主催の永野三智さんのお陰であります。感謝!その中でも、特に素晴らしかったのは、若夫婦の「FUNKA」チームだった。
今年の「浄瑠璃」(じょろり)は、坂本きよ子さんの話「きよ子桜」。坂本きよ子さんの妹のきみえさんも聴きにきていただき、大変ありがたかったです。
水俣百年芸能祭 苦海浄土浄瑠璃(じょろり)きよこ桜 - YouTube
そして、最後は、来場者全員で躍りまくる熱狂!これこそ、現代踊り念仏!
THE 百年デラックス水俣BAND
ものすごく濃い二日間でした。三日目は、開店したばかりの「カライモブックス」で、ぼけーーーーっとさせてもらいました。石牟礼道子氏の家です。
又来年、参ります。
残念ながら中止となりました。
ようやく、涼しく秋らしくなりました。山はキノコ盛りですが、百年芸能祭も益々増殖中です。東京百年芸能祭の粘菌がじわじわと日本を侵食するのでした。
第一日目は、2年ぶりの「ギャラリービブリオ」での「旅するカタリ」の開催でした。コロナを生き延びて、懐かしいお顔を拝見できただけでも、ひとつの奇跡かもと思いました。
百年芸能祭旗に合わせて、百年幟旗も出来ました。さらに、ビブリオのオーナー十松氏所有の牛頭天王半纏をお借りしての華やかな背景となりました。なにしろ、私の守護神ですから心強いこと極まりなし。
さて、今回は、新作の「熊野之御本地」(ごすいでん)を仕込んで参りました。その後の説経に色濃い影響を与えた筋立てです。古代インドのマカダ国の王宮の話が、なんで熊野権現の本地なのか、まったく奇想天外な筋立てです。
千人の后の中で、只一人お世継ぎをご懐妊された「ごすいでん」(五衰殿とも)、999人の恨みをかって、呪われます。その呪い方は、「五徳を被って蝋燭立てて」鬼となって五衰殿の館に夜な夜な現れ、雄叫びを上げるというもので、信徳丸の継母おすわの牛の刻参りの姿を思わせます。
ごすいでんは、正妻らの陰謀により追放され、山奥で王子を出産、その後処刑されますが、信心していた十一面観音・観音経の功徳によって、王子は生き残ります。
やがて、十三歳になった王子の枕元に母が立ち、「私の首が五衰殿の床下に埋まってるので、掘り出して供養してくれ」というのでした。
詳細ははぶきますが、首は掘り出され、なんと、ごすいでんは、生き返ります。
床下に埋まってるとか、蘇生するとかというのは、「安倍清明」の話に共通しています。
喜んだ王様は、999人の后を捨て、親子三人と共人を連れて、飛車にのって、東の方向へと飛び去ります。そうして着いたところが、熊野だという話です。
えっ?まじ?それでいいの?という結末です。
後半は、口先案内姜信子の解説に導かれて現代詩を語りました。この百年に起きた事柄を「記憶」させるための歌たちです。
標準語励行の歌。うたまたひとつ。ほねのうたう。腰まで泥まみれ。
百年芸能祭テーマソング「No Human No Cry」
特に、久しぶりに語った金時鐘氏の「うたまたひとつ」をのせておきます。
二日目の日中は、三鷹の学童保育「げんこつ組」でピアノ解体バラバラショーのお手伝い。三味線体験もほんの少し。それから、駒込に移動して、夜は、東京琉球館主催の百年芸能祭が開催されました。
第二部は、仕切り直して、チンドンから賑やかに。これは、予祝。この日は、ピヨピヨ団として、以下の曲目をお送りいたしました。
標準語励行の歌。千金丹口上。死ぬふりだけでやめとけや。水をくれ。調律。チンライ節・酋長の娘。鷲ぬ鳥・デンサー節。No Human No cry。
名調子の二題を以下のリンクからお聴き下さい。
打ち上げも盛況で、ありがとうございました。皆さん、終電に間に合いましたか???
三日目は、八王子です。辛淑玉さんの旗振りで、こぎつねの家のスタッフさんたちが手伝っての手作り百年芸能祭。手作りお弁当が本当に美味しかったです。ありがとうございました。
第一部は、市川幸平さんの紙芝居「人生ラムネ」。応援、末森英機さん。主人公のお姉さんにもきていだき、良かったです。認知症への対応は、人ごとではない。とても、ニコニコしてられない。それより、自分がそろそろあぶない・・・
第二部は、辛淑玉(シン・スゴ)さんVSピヨピヨ団。百年の記憶を刻見込む時間。
十五円五十銭。標準語励行の歌。星めぐり(末森英機)。関東大震災関連民謡メドレー。ベラチャオ(佐藤直子)。ヤルミウン・サラム(辛淑玉・姜信子)。東京こぎつね娘。調律.。No Human No Cry。
特に、関東大震災関連民謡メドレーは、3月の東京現地研修の時に歌った供養メドレーで、震災後の虐殺事件の被害者達のお国の歌を歌って供養するものです。これぞ、躍り供養。
また、ピヨピヨ団が毎回、百年芸能祭で、必ず歌う歌があります。その一つは、
韓国のハン・ドルが作詞作曲した「調律」という曲です。翻訳、姜信子。「お休み中の神様」に、「この世の中を調律し直してください。」と頼む歌です。ピヨピヨ団が、騒いで、神様をおこしてやるという意味も込めます。
そうして、おいて、「世界はかわるはず」「世界をかえてやる」と絶叫するのが、ボブ・マーリーの「No Woman No Cry」の替え歌。「No Human No Cry」(作詞:姜信子)です。
東京での百年芸能祭を支えてくれた皆皆様、ご来場いただいた方々、ありがとうございました。「また、来年も」の声に元気をいただいて、百年芸能粘菌をばらまいていきたいと思います。今回はかなり濃厚感染者が発生した模様。感染者は、以下のステッカーを目立つところに貼ってください。
美術を評する力は私には勿論無いが、乾真裕子の作品は私には、肉弾的パフォーマンスとして、美術というより芸能に見える。上の写真も作者自身の変態である。
彼女は最初、「葛の葉」について聞きたいと尋ねてこられた。その時には「竹取物語」という奇妙な映像作品とともに現れた。「私は、月には帰らない」というのである。そして次の作品「葛の葉」が映像化された。これは卒業作品だったので、今年の春頃の話である。そして、今回の個展の直前に、また現れた。どうやら、悩んでいるらしい。9月の個展なのに、8月の中旬のことだ。映像は海外で撮り終えていたが、悩みは、母方の高祖父「曽和義弌」氏のとんでもない著書「日本神道の革命」(1961年)のことだった。神の系図としては、天皇制を否定し、万世一系を否定する真っ当な内容だが、乾真裕子が立ち向かっている課題と真っ向するような「家父長制」と男尊女卑が声高なのである。そのほかにも、個展で取り上げようかと考えている候補がふたつぐらいあって、どうするか迷っているとのことだった。そこで、「今日の話の中で、一族の義弌さんが希有で一番面白いし、避けては通れないのでは?」と、答えた。
結果の一部がこうである。異議ありテキストを絹糸で、縛り付けた?のか、いや、包み込んで、「繭」に戻し、新たな『変態』の機会を与えるのか?・・・その上、自身のパフォーマンスは、このテキストを音読し、異議あり部分では繭玉を口に含んで、もごもごと読むのである。魚の餌に使う、さなぎ粉の臭いを知っている方は、想像がつくとかもしれないが、思わず吐き気がするのである。こみあげるものを押さえながら、抗議の音読をする。なんという決死のパフォーマンスだろうか。ただ者ではない。
そのパフォーマンスへの返歌は、「ふゆじどん」である。「ふゆじ」とは、熊本方言で、「なまけもの」みたいな意味である。しかし、石牟礼道子の言うところの「ふゆじどん」とは、社会的効率になんの寄与もしない存在が、神の如くに尊く、いや神とは本来、蛭子(恵比寿)のように五体不満足なものなのだという逆説なのである。
だから、苦海浄土の神々の村には、胎児性水俣病の肢体不自由児がいる。そして、ここにいる「玉繭」とは、一種の奇形であり、絹の効率性の外にある存在である。
ただ、ひとつ残念なのが、この個展で飾られた「繭」が、純白の繭であったことだ。この純白は、近代日本をのひとつの象徴である。ここに、養殖種ではない、つまり資本主義の外に存在する、黄色い山繭が居てしかるべきだろう。
動画撮影:掘蓮太郎
次は、いったい何をやらかすのか、楽しみだ。