7月から始まりました「説経祭文三庄太夫全15段通狂言」の第二夜。二段目を、緊急事態宣言の中、無事に終えることが出来ました。とにかく、もうこなっては、何事も命がけ、ご参加いただき、共に場を作っていただいた、皆々様方にただただ、感謝。
始めてから、気がついたことですが、15回連続というのは、15回分けて演ずることとはちょっと違いますね。まず、前回の反省があるますので、今度はこうしようという明確な意図が生じます。今回は、特に、これまで一方的に語っていたにすぎなかった「語り」の方法に大きな変化がありました。これまで怖くてできなかったことですが、わざと話しの腰を折って、お客さんに呼びかけたり、対話したりという間を作ろうと思ったのでした。
どうしてかというと、説経祭文は、「博物的鑑賞」の対象ではいけないと常々思っていたのですが、どうしても、そういう雰囲気が漂ってしまう。なんとかならないものか・・・説経は泣き物だから仕方ないか・・・などと思っていたのですが、どうやら、それは私の演じ方に問題があるのだなと気がついたのは、安聖民さんのパンソリに親しむようになってからのことです。お客さんがしーんとお行儀がいいのは、私が、「黙って聞け」と強制しているらしい・・・
まあ、そこで、いわば「噺」をはさむことにしたのです。ちょっと一休み。盛り上げたところで、切るというのは、勇気がいります。しかし、そのことで、一方通行でなくなりました。そうだ、自分だって、映画の画面に向かって、叫びたくなることがあるじゃないか。お客さんも、何か言いたいけど、言う間が与えられていなかっただけだったんだなあと。そんなことにようやく気がつきました。
さて、それに、前半の解説も毎回、手を替え品を変えないといけません。これがまた面白い。やってる本人達がおもしろがっています。今回は、山椒太夫の歌舞伎バージョン「由良湊千軒長者」に焦点を当てました。これが、また突拍子もない話。説経が廃れた後の江戸時代に大流行したこの外題は、「鶏娘(とりむすめ)」が売りでした。ひょっとして江戸時代の人々にとっての「山椒太夫」って、「こけこっこー」だったのかもしれません。その「鶏娘」のサワリを、俄仕立ての祭文に作りました。
由良湊千軒長者 第五 大詰 鶏娘 部分 渡部八太夫 翻案
八寒地獄畜生界、心は紅蓮大紅蓮
解けて乱れし黒髪は
ばらばら鶏の羽風(はかぜ)と共に
報いは目前、我が身の上に
思わず知らず、はばたいて
一声叫ぶ、コケッコー
どこの鶏ぞと見回せば
思わず見やる池の水
池に映りし、影を見て
「ええ、情けなや、我が姿、生きながら鶏となり
翼、生じたり、今の声も、我が鳴き声であったるか」
ああ、浅ましや、親の因果が子に報い
この姿になったれば、所詮、この世に、生きながらえる心なし
おおそれよ、この身を殺いて、殿御の命を助けん」と
(※殿御:山荘太夫の娘おさんが恋する要之介、実は兄)
念力、凝って、髪逆立ち
鶏冠を怒らし、白雪を
蹴立て、踏み立ち、待合に
掛けたるひと腰、逆手に取り
のど笛裂けば、血はくれない
恐ろしかりける次第なり
なんだ、こっちの方が面白いかも・・・・
次回の第三夜、第三段は、9月13日(月)18:30から。淀屋橋カフェ周にて。
第三段は、舟別れ・形見贈り・宇和竹恨みの三場です。
説経祭文三庄太夫二段目(山岡住家・勾引の場)は以下でお聴きください。